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「自衛隊」の話をしよう

2016年10月01日(土)

今回のゲストは、18歳から25歳まで自衛官をしていた2人。

本店の栁井さんと三重店の多田さんです。

聞き手は、本部の後藤です。

 

(左:多田 右:柳井)

 

――こんにちは、よろしくお願いします。

早速ですが、自衛隊の平均的な一日を教えてください。

 

栁井 朝食食べて朝礼して駆け足(ランニング)。

その後、整備やら訓練、射撃訓練とか。

いろんな武道する人は武道。それを日中やって駆け足。

 

――駆け足で始まって駆け足で終わるんですね。

 

栁井 そうですね。

 

多田 自衛官は走ることが基本ですよね。

僕はまず登庁して朝飯。

点呼全部して、6時半までに部隊に上がってきて、

僕がやってたのは建築の方なので、

そこから道路の陥没してるのを見つけたら掘削してアスファルト打ち直す。

今、うちのお客さんがしてるみたいなこと普通にしてまたね。

 

――思い出深いことは何ですか?

 

栁井 米軍との合同演習。

日出生台で初めてやったとき、面白かったのと大変やったのと両方。

戦車の射撃場で米軍が実弾の薬莢を落とした可能性があるってなって。

実弾は100パーセント回収なんやけど、

戦車が走るところやけん1キロくらい四つん這いで

演習が終わった後にずーっと探したね。

何でこいつら落とすんやって思いながら。

 

米軍は打ったら打ちっぱなしやけん、向こうは使い捨てみたいな感じ。

由布院で交流会があったときも、

こっちは袋詰めの食料あげたら向こうは着ていた上着を脱いでくれたりとか。

要は服とかは全部支給されるけん、どうぞ~みたいな。

そういう体験が出来て面白かった。

あと楽しかったのは九州各地に行けたこと。

 

(柳井:23歳 陸上自衛隊 大分県別府駐屯地)

 

――行くのはトラック?

 

栁井 そうトラック。列を連ねてね。

 

多田 すごい痛いんですよ。

人を乗せるためのものではなくて

荷物を積むトラックに無理やりイスつけてるんで。

木の板やし、跳ねるときは跳ねるし。

パッと腰を上げたりしないと長距離になったらきついですね。

中は空気がこもるんですよ。

生きた心地がしないですよね。

 

栁井 そうそう。陸上自衛隊の場合は1番上の人が1番後ろに座る。

下っ端は奥に詰められて荷物と同化する。

 

――なぜやめたんですか?

 

栁井 体力が無かった。

体力が基準以上にないな~っていうのがあったけん。

今より比べ物にならないくらい体力あったけどケンスイ何回できたかな。

 

多田 自分は、昇任が決まったの一番遅くて、

泣くほど嬉しくて泣いてたんですけど、

何かオリンピック選手じゃないけど燃え尽き症候群みたいになって。

本当に仕事が何も楽しくなくなって、何してるんだろう?とか、

昇任の準備しないといけないので不安にもなるんですけど

それ以上に何もやる気が起きなくて。

 

そのときおった先輩と元々仲が悪かったんですけど、ぶつかるようになって、

向こうに謝らせるくらいこっちが怒るようになって。

そういうのがしょっちゅうあってある意味見切りがついたというか、

もういいな大分に帰ろうと思って。

 

(多田:18歳 航空自衛隊 鳥取県美保基地)

 

――国を守っている意識はありましたか?

 

栁井 そんなに実感はなかったですね。

90年代でどちらかと言うと自衛隊が表向きではない時代なので。

いつも行動は市民から見られてるという意識はあった。

言ってみれば、決まりがあるけん、守らないと何しよんのみたいな。

 

多田 僕らのときも周りの人と仲良くしろよっていうのはありましたね。

荒っぽい運転して危ない目に合わしたりするな、変なことするなよっていう。

周りに嫌われると出て行けってなるんで。

何やってるんだ国の金だろって言って怒られたりとか。

 

自分の意識が変わったのは東日本大震災ですね。

テレビで中継見て、何もできない。

市民はできなくて当然なんですけど

僕らはそれ以上に部隊として動けない自分が何だろうっていう感じもあったし、

花巻に実家がある先輩がたまたま部隊にいて

すごい泣きながら見ていられないって言ってました。

複雑な気持ちですよね。

 

で、行った先輩の話を聞くと、自衛隊はご遺体って言うんですけど、

土砂と一緒に埋まっていたらご遺体も重機で引っ張りあげるんですけど、

ご遺体を見ないようにって。

その後、重機に乗れなくなるって言ってました。

辞めた後すぐに広島の土砂崩れがあって、何してるんやって思いました。

もう自衛官ではないけど気持ちが高ぶって、

そのときは、そういうところに居れたのになって思いました。

地域を守る、人を一人でも多く救うとかそういう気持ちはあったと思います。

 

(インタビュアー後藤)

「私の父も自衛官でした」